あと、お砂糖を一匙足して

好きなものは好きだと言いたい

いつかはナイモノネダリを聴ける気がした

"ないものねだり"に身に覚えがある人間で、ナイモノネダリを聴くと素直に感動できない。

 

ウェンディの結婚相手はどう思うのかな、とか考えてしまう。「あなたとの出会いがなければ今の私はここにいないでしょう」というのはかけがえのない事実だけど、冗談めかしたとしても結婚前夜に「迎えに来て連れ去ってよ」と心の中で歌ったと知ったら不安になるんじゃないか。

こう想像してしまうと、相手が良い気持ちにはならないだろうなって事を想うことに対して罪悪感がある。「幸せになるからね」なんて気軽に言えない。「まだ誰のものでもない私の最後の夜」なんだから、何を想っても自由なはずなのに。

 

結婚を決めた時、両親に挨拶した時、式の準備を始めた時、「振り返るのはもう終わり」と何度も心に決めたはずなのに、やっぱり結婚前夜にピーターパンに思いを馳せている。大人になるってなんだろう。

ウェンディの結婚前夜というおとぎ話にしてしまえば可愛らしいけど、"ないものねだり"って悶々とするしそんなに美しくないこともある。年月が経って、ピーターパンへの恋が完全に"かわいい思い出"へと変わるまでは。

口には出せない感情をずるずるっと表に出したような曲だと感じてしまって、ナイモノネダリがちょっぴり苦手だった。

 

そんなナイモノネダリだけど、先日のワチドアを何回か聞いて、やっと自分の中で消化し始めたような気がする。

 

橋口さんの「ナイモノネダリっていうタイトルをつけた時点で答えは出ている」というコメントが印象的だった。この曲にある種の仄暗さを感じてもいいのかもしれないと思った。

 

そして、薮くんは「女性ってこういう気持ちになるんだ、って思いながら」と言いながら、ナイモノネダリを"隣の芝は青い"と表現した。

隣の芝は青いという言葉は「こちらの芝も実は青い」というニュアンスを含んでいる。ウェンディの結婚相手としての薮くんが「こっちの芝も青いのにねー」と柔らかく笑ってくれているように聞こえた。そっかぁ、と思ったら、この曲は暗いだけでもないんだなぁと感じることができるようになった。

何年か経って、「そうだね、こっちの芝生も青くてふかふかだよね」と言うことができればいいのか、と、やっと自分の中で腑に落ちた。

 

今はまだナイモノネダリを聴くと心がチクッとするし時折ツッコミを入れたくなったりするけど、10年後20年後に穏やかな気持ちでナイモノネダリを聴けるかもしれない。「幸せになるからね」とは簡単には言えないけど、私はこれからの日々を積み重ねていく。